本日は、私に医師としてのあり方を教えてくれた、最も尊敬する医師についてお話しします。
医学部の5年生の時、すでに私は病理医になろうと決めていましたので、おそらく残りの人生で臨床をやることはないだろうという考えから、臨床実習中に経験 できることは何でも積極的にやろう、臨床の現場でみられることはすべて見てやろうということで、外科を回った時には時間が許す限り、あらゆる手術に立ち会 いました。
それが評価されたのか(そんなことは絶対にない)、本当は医師法違反でしょうが特別に私だけ、手首の動脈からの採血や、外科手術の簡単な縫合もさせてもらいました。外科の先生には「お前、手術に入り過ぎだよ!」と笑いながら言われました。
附属A病院の外科実習では、当時は当直実習という正規のカリキュラムはなかったのですが、外科の医局長に無理を言って、一晩当直に入れていただき、夜中に3件も飛び込ん できた緊急の虫垂切除術に手洗いして第2助手として入り(第1助手的にやらされました)、襲いくる睡魔のなかで外科手術をおこなうことの大変さを経験しま した。
当時、学生が積極的に当直させてくれと申し出るのはそれまでに無く、私と、学生番号が隣の同級生のケースが初めてで話題となり、後に続く実習斑がいたとい うことです。そのためか、外科の医局長が築地から生牡蠣をバケツいっぱい取り寄せてくれ、私たちに振舞ってくれました。生まれて初めて生牡蠣を食べたのが、このA病院外科医局だったのです。
その先生との出会いは医学部5年生の臨床実習の当直の時です。私の大学は当時、初の本格的な救急部門を新たに開院した附属B病院に作り、私の学年からB病院での当直実習が始まりました。
夜7時に高度意識障害を主訴に、救急部(ER)に60代女性が運ばれてきました。ポケベルで呼び出された私たちを迎え、丁寧に指導してくれたのが、当日の内科当直医で、当時30代前半、新進気鋭の神経内科医、N先生でした。
このときのことは今でも昨日のように鮮明に覚えています。
患者さんは深昏睡の状態で自発呼吸は弱く、左右の瞳孔がピンホールのように小さくなったままで(縮瞳)、重篤な脳幹出血が疑われました。すべてが初めて経験することで、おろおろしている私たち学生に、脳卒中急性期に手早くどう診察すべきか、病態の把握と治療の両立、現場でなにができるか等々、丁寧に教えてくださいました。
バビンスキ反射など病的反射の出現や深部腱反射の亢進など、神経所見の取り方・みかた、気道を確保するための舌根沈下防止のためにあごを持ち上げるJaw-up等々、授業や教科書でしか知らない初期治療の実際を手ほどきしてくださいました。
この病的反射が出ているのを確認しながら一瞬、漫画ゴルゴ13を思い出してしまいました。旧ソ連ではバビンスキ反射が出て拷問を止めているシーンを思い出したからです。ただちに、脳圧を下げるための薬が点滴で行われました。
その直後、キザなアラフォー部長を筆頭とした脳神経外科医も大挙してERにやってきたのですが、
「おらおら学生!もっと強くあごを挙げろ!
こ・う・す・る・ん・だ・よ!!」
と、私の手を痛いほど握ってえばり腐って指導するのです。すでに酒を飲んでいるかのような悪態ぶりでした。
その後速やかに気管挿管され、皆でストレッチャーを放射線室に運んでCTを撮りました。 脳幹(橋)の中央に白く光る出血が確認され、その脳外科部長はこう言い放ちました。
「あーやっぱり脳幹出血だ! ハイ、手術適応なし!
脳外科の出番はありませーん。おーいみんな!飲みに行くぞ!」
その場に私たち学生とN先生が取り残され、その後ICU管理となるまでの急性期を見守ったのです。私はN先生を通して、いま命のともしびが消えるかもしれない患者さんに真摯に向き合う、 あるべき臨床医の姿を見ることができました。
私が医師となって7年目、ちょうど専門医を取得した直後にB病院に転勤となり、再びN先生と今度は医師同士としてお付き合いすることになりました。 仕事を通じての付き合いはもとより、病院のコンピューターシステムをどうするか一緒に検討したりと、いろいろお世話になりました。
優れた臨床医として皆に尊敬され、常に謙虚な「学習者」としてのあり方を私に見せてくれたのもN先生です。
なお、私がいた当時のK病院総合内科は、一般、神経、感染症、血液、循環器、消化器・肝臓、呼吸器、糖尿病・代謝内分泌、腎臓など、専門家の集合体でした が、外来においては初診から専門まで、教授から研修医まであらゆる疾患を全員が分担しておりました。病院開院当初から、N先生は 総合内科の立ち上げの中心メンバーとして活躍されました。(現在では専門分化し、総合診療部門がなんでも内科の役割をしているようですが)
また、臨床医であっても技術があれば病理解剖ができる、ということを示してくれたのもN先生です。先生は「他部署の手をわずらわしたくない」ということで、なんと!病理検査室に何の連絡もないまま、夜中にお一人で開頭を含めた全身の解剖をされました。
器具が綺麗に片づけられて清掃された解剖室をみて、「誰か夜中に解剖やった?」と確認したところ、先生がお一人で解剖をやった後だったとわかった時、病理スタッフ一同、言葉を失いました。先生は某国立大学の神経内科に国内留学された時、病理解剖を学んだとのことでした。
ある日、最寄の駅から歩く道すがら、最近元気がないN先生に私の上司が、 「N君、最近顔色悪いけど、どうしたの?」と問いかけると、「最近、ぜんぜん疲れが抜けないんです」との答えが帰ってきたそうです。
その後、先生の姿は病院から消え、内科にいた私の同級生から「おそらく職場復帰することができない病気」で附属病院本院に入院したという話を聞きました。 その真実を知った時に私はショックでしばらく仕事も手につかなくなるほどでした。レントゲンで見つけにくい、右の肺門に発生した小さな腺癌でした。
闘病期間は5ヶ月。死因は肺がん(低分化型腺癌)・脳転移、享年45でした。
私の同僚が先生の病理解剖を担当しました。誰からも慕われる先生の早すぎる死に、多くの同僚、職員が涙しました。お通夜は先生のお生まれになった東京下町にある斎場で行われ、大勢の列席者の後、一番最後のほうに焼香した私は初めてお会いする奥様にお悔やみの言葉をかけました。泣き疲れて憔悴しきった奥様は、ぜひ聞いて欲しいという感じでお話くださいました。入院して最期のほうで、毎日のように、
「僕は神経の医者だから、脳に転移したがんだけは絶対に治してみせるから」
と、うわごとのように言っていたとうかがいました。
もちろん、それは叶わないことだとわかりますし、脳転移が正常な神経伝達を阻害した結果と理解できますが、臨床医としての執念を思わせ、私はあふれる涙を抑えられませんでした。いまでもN先生のことを思い出すだけで涙が出ます。この文章を書くのも一苦労です。
N先生は個人の医師会員ではありませんでしたが、医師会主催の勉強会で講師を何度もお務めになったこともあり、特別に地域の医療に貢献したということで、亡くなった後、地域の医師会から特別な賞を授与されたそうです。
ずいぶん後に、肺がんと診断された最初の経気管支的肺生検(TBLB)で採取された組織を顕微鏡で観て、少数の癌細胞が出現しているのを確認しましたが、 現在に至るまで、解剖での先生の臓器プレパラートを検鏡していません。観たいという気持ちはありますが、先生の体の中を覗きみてよいほど、私は先生に追い ついていないと思ったからです。でもそのうち、先生の病理組織を拝見させていただこうと思っています。
今なら非喫煙者の肺腺癌はイレッサやタルセバなど、分子標的治療薬である程度、生存期間を伸ばすことができるかもしれませんが、90年代はドセタキセルなど新規抗がん剤は出てきてはいましたが、有効な薬物治療はありませんでした。
ほんとうに善い人は早死にするということが理解できました。密度の濃い人生を一気に駆け抜けるからでしょう。早世した方々は、残された人たちに与える影響 も大きく、死後ますます尊敬の念が高まります。私は早死にしたくないので、「憎まれっ子世にはばかる」を実践したいのですが、死んだ後に私を想って誰か泣 いてくれる人がいればよいと思っています。
私はとうにN先生が亡くなった年齢を超えていますが、いったい毎日、何をやっているのでしょう。日々の仕事を片づけるのに精いっぱいで上昇志向もなく、ほんとうに恥ずかしくなります。
世間では、自分本位で、まともに話ができなかったり、互いの接点を見出す努力のかけらも見えないという、相手の気持ちを考えられない、人間を相手にする医師としてあってはならない医師がいます。医師である前に人であることができない医師がたくさん存在するのです。そんな医師に対し、N先生の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいです。
N先生、もう一度先生にお会いしたいです。
この文章を天国のN先生に捧げます。
医学部の5年生の時、すでに私は病理医になろうと決めていましたので、おそらく残りの人生で臨床をやることはないだろうという考えから、臨床実習中に経験 できることは何でも積極的にやろう、臨床の現場でみられることはすべて見てやろうということで、外科を回った時には時間が許す限り、あらゆる手術に立ち会 いました。
それが評価されたのか(そんなことは絶対にない)、本当は医師法違反でしょうが特別に私だけ、手首の動脈からの採血や、外科手術の簡単な縫合もさせてもらいました。外科の先生には「お前、手術に入り過ぎだよ!」と笑いながら言われました。
附属A病院の外科実習では、当時は当直実習という正規のカリキュラムはなかったのですが、外科の医局長に無理を言って、一晩当直に入れていただき、夜中に3件も飛び込ん できた緊急の虫垂切除術に手洗いして第2助手として入り(第1助手的にやらされました)、襲いくる睡魔のなかで外科手術をおこなうことの大変さを経験しま した。
当時、学生が積極的に当直させてくれと申し出るのはそれまでに無く、私と、学生番号が隣の同級生のケースが初めてで話題となり、後に続く実習斑がいたとい うことです。そのためか、外科の医局長が築地から生牡蠣をバケツいっぱい取り寄せてくれ、私たちに振舞ってくれました。生まれて初めて生牡蠣を食べたのが、このA病院外科医局だったのです。
その先生との出会いは医学部5年生の臨床実習の当直の時です。私の大学は当時、初の本格的な救急部門を新たに開院した附属B病院に作り、私の学年からB病院での当直実習が始まりました。
夜7時に高度意識障害を主訴に、救急部(ER)に60代女性が運ばれてきました。ポケベルで呼び出された私たちを迎え、丁寧に指導してくれたのが、当日の内科当直医で、当時30代前半、新進気鋭の神経内科医、N先生でした。
このときのことは今でも昨日のように鮮明に覚えています。
患者さんは深昏睡の状態で自発呼吸は弱く、左右の瞳孔がピンホールのように小さくなったままで(縮瞳)、重篤な脳幹出血が疑われました。すべてが初めて経験することで、おろおろしている私たち学生に、脳卒中急性期に手早くどう診察すべきか、病態の把握と治療の両立、現場でなにができるか等々、丁寧に教えてくださいました。
バビンスキ反射など病的反射の出現や深部腱反射の亢進など、神経所見の取り方・みかた、気道を確保するための舌根沈下防止のためにあごを持ち上げるJaw-up等々、授業や教科書でしか知らない初期治療の実際を手ほどきしてくださいました。
この病的反射が出ているのを確認しながら一瞬、漫画ゴルゴ13を思い出してしまいました。旧ソ連ではバビンスキ反射が出て拷問を止めているシーンを思い出したからです。ただちに、脳圧を下げるための薬が点滴で行われました。
その直後、キザなアラフォー部長を筆頭とした脳神経外科医も大挙してERにやってきたのですが、
「おらおら学生!もっと強くあごを挙げろ!
こ・う・す・る・ん・だ・よ!!」
と、私の手を痛いほど握ってえばり腐って指導するのです。すでに酒を飲んでいるかのような悪態ぶりでした。
その後速やかに気管挿管され、皆でストレッチャーを放射線室に運んでCTを撮りました。 脳幹(橋)の中央に白く光る出血が確認され、その脳外科部長はこう言い放ちました。
「あーやっぱり脳幹出血だ! ハイ、手術適応なし!
脳外科の出番はありませーん。おーいみんな!飲みに行くぞ!」
その場に私たち学生とN先生が取り残され、その後ICU管理となるまでの急性期を見守ったのです。私はN先生を通して、いま命のともしびが消えるかもしれない患者さんに真摯に向き合う、 あるべき臨床医の姿を見ることができました。
私が医師となって7年目、ちょうど専門医を取得した直後にB病院に転勤となり、再びN先生と今度は医師同士としてお付き合いすることになりました。 仕事を通じての付き合いはもとより、病院のコンピューターシステムをどうするか一緒に検討したりと、いろいろお世話になりました。
優れた臨床医として皆に尊敬され、常に謙虚な「学習者」としてのあり方を私に見せてくれたのもN先生です。
なお、私がいた当時のK病院総合内科は、一般、神経、感染症、血液、循環器、消化器・肝臓、呼吸器、糖尿病・代謝内分泌、腎臓など、専門家の集合体でした が、外来においては初診から専門まで、教授から研修医まであらゆる疾患を全員が分担しておりました。病院開院当初から、N先生は 総合内科の立ち上げの中心メンバーとして活躍されました。(現在では専門分化し、総合診療部門がなんでも内科の役割をしているようですが)
また、臨床医であっても技術があれば病理解剖ができる、ということを示してくれたのもN先生です。先生は「他部署の手をわずらわしたくない」ということで、なんと!病理検査室に何の連絡もないまま、夜中にお一人で開頭を含めた全身の解剖をされました。
器具が綺麗に片づけられて清掃された解剖室をみて、「誰か夜中に解剖やった?」と確認したところ、先生がお一人で解剖をやった後だったとわかった時、病理スタッフ一同、言葉を失いました。先生は某国立大学の神経内科に国内留学された時、病理解剖を学んだとのことでした。
ある日、最寄の駅から歩く道すがら、最近元気がないN先生に私の上司が、 「N君、最近顔色悪いけど、どうしたの?」と問いかけると、「最近、ぜんぜん疲れが抜けないんです」との答えが帰ってきたそうです。
その後、先生の姿は病院から消え、内科にいた私の同級生から「おそらく職場復帰することができない病気」で附属病院本院に入院したという話を聞きました。 その真実を知った時に私はショックでしばらく仕事も手につかなくなるほどでした。レントゲンで見つけにくい、右の肺門に発生した小さな腺癌でした。
闘病期間は5ヶ月。死因は肺がん(低分化型腺癌)・脳転移、享年45でした。
私の同僚が先生の病理解剖を担当しました。誰からも慕われる先生の早すぎる死に、多くの同僚、職員が涙しました。お通夜は先生のお生まれになった東京下町にある斎場で行われ、大勢の列席者の後、一番最後のほうに焼香した私は初めてお会いする奥様にお悔やみの言葉をかけました。泣き疲れて憔悴しきった奥様は、ぜひ聞いて欲しいという感じでお話くださいました。入院して最期のほうで、毎日のように、
「僕は神経の医者だから、脳に転移したがんだけは絶対に治してみせるから」
と、うわごとのように言っていたとうかがいました。
もちろん、それは叶わないことだとわかりますし、脳転移が正常な神経伝達を阻害した結果と理解できますが、臨床医としての執念を思わせ、私はあふれる涙を抑えられませんでした。いまでもN先生のことを思い出すだけで涙が出ます。この文章を書くのも一苦労です。
N先生は個人の医師会員ではありませんでしたが、医師会主催の勉強会で講師を何度もお務めになったこともあり、特別に地域の医療に貢献したということで、亡くなった後、地域の医師会から特別な賞を授与されたそうです。
ずいぶん後に、肺がんと診断された最初の経気管支的肺生検(TBLB)で採取された組織を顕微鏡で観て、少数の癌細胞が出現しているのを確認しましたが、 現在に至るまで、解剖での先生の臓器プレパラートを検鏡していません。観たいという気持ちはありますが、先生の体の中を覗きみてよいほど、私は先生に追い ついていないと思ったからです。でもそのうち、先生の病理組織を拝見させていただこうと思っています。
今なら非喫煙者の肺腺癌はイレッサやタルセバなど、分子標的治療薬である程度、生存期間を伸ばすことができるかもしれませんが、90年代はドセタキセルなど新規抗がん剤は出てきてはいましたが、有効な薬物治療はありませんでした。
ほんとうに善い人は早死にするということが理解できました。密度の濃い人生を一気に駆け抜けるからでしょう。早世した方々は、残された人たちに与える影響 も大きく、死後ますます尊敬の念が高まります。私は早死にしたくないので、「憎まれっ子世にはばかる」を実践したいのですが、死んだ後に私を想って誰か泣 いてくれる人がいればよいと思っています。
私はとうにN先生が亡くなった年齢を超えていますが、いったい毎日、何をやっているのでしょう。日々の仕事を片づけるのに精いっぱいで上昇志向もなく、ほんとうに恥ずかしくなります。
世間では、自分本位で、まともに話ができなかったり、互いの接点を見出す努力のかけらも見えないという、相手の気持ちを考えられない、人間を相手にする医師としてあってはならない医師がいます。医師である前に人であることができない医師がたくさん存在するのです。そんな医師に対し、N先生の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいです。
N先生、もう一度先生にお会いしたいです。
この文章を天国のN先生に捧げます。
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