2015年7月23日木曜日

私にとっての脳死

 2010年6月17日のことです。当時の私は某巨大医療グループに在籍していましたが、米子市のホテルで開かれる、鳥取大学医学生向けの初期臨床研修説明会に参加するため、羽田発の飛行機で出雲空港に降り立ちました。最寄りの米子空港ではなく、隣の出雲空港だったわけですが、島根県を訪れたのはこの時が初めてで、私はある記憶が呼び覚まされることになります。出雲空港を降り立ったこの景色。きっと彼女も目にしたであろう、この景色。。。

 彼女とは誰か、それを話すと長くなります。

 もう20年も前のことになります。ちょうど私が大学病院に勤務して、夏に専門医の試験を受験するという年の春でした。当時、病院食堂などで見かけたとき、私はただ指をくわえてみているだけの、色白で美しく、かつ可愛く清楚な印象の、そして誰からも慕われているという若い看護師さんがいました。これまでの人生でであった女性の中でも「かわいい」という点では、おそらく彼女の右に出るものはいないでしょう。

 名札からは名前が、そして整形外科病棟に勤務しているということはわかりましたが、それ以上の個人情報はわかりませんでした。同僚の男性技師たちも、彼女の虜になっていました。「あの子絶対、性格も最高だよ」と決め付けるほどでした。

 どうしても彼女と話すきっかけが作りたいと思っていましたが、まさか廊下ですれちがったとき「ボ、ぼくとご飯食べに行きませんか?」とイキナリ見知らぬ男から声をかけられたら変質者に思われますし、まぁ、そのうち話すチャンスがあるだろう思っていました。

 最寄の駅で当直明けの彼女とすれ違ったとき、腰まであるロングヘアーであることに気がつきました。ナースキャップ姿しかみたことがありませんでしたから、勝手に髪の毛は短いだろうと思っていたのです。

 そんな折、珍しく整形外科から腫瘍か何かの手術検体が提出され、診断が難しいためにレントゲンを参照する必要がありました。骨の病変は必ずレントゲンと組織とあわせて診断することをモットーにしていたのです。そこで、午後5時を回ったとき、病棟を訪れると、彼女と先輩の看護師の二人が当直看護師としていました。

 私は、「す、すいません。○○様のカルテとレントゲンを見たいのですが・・・」と申し出るとこころよく、「どうぞどうぞ」と答えてくれました。レントゲンを見ても埒が明かず、主治医と直接話したいと思ったので、「あのー、整形外科の先生はいらっしゃいますか?」と訊いてみると、「誰先生がよろしいですか?」と返されたので、「えーと、○○先生がベストですね」と、一番気さくな整形外科医の名前を挙げると彼女は、「○○先生がベストですね、わかりました!」と、ベストという言葉を繰り返してくれ、電話で連絡を取ってくれたのです。

 結局、その先生は早退されたということでしたが、彼女のユーモアを感じる応対に心を打たれました。でも、恥を忍んでも「ぼくと食事に行きませんか?」と変質者扱いされても言っておけばよかったと、その後ひどく後悔することになるとは、このときはまったく思いませんでした。

 ある日、病理検査室でいつものように細胞診をチェックしていると、脳脊髄液が出てきました。臨床診断は「脳炎うたがい」。そして患者氏名をみると、そこには彼女の名前があったのです。ビックリして担当医に連絡をすると、もう入院して1週間だというのです。

 さっそく病棟に行き、CT写真を見せてもらいましたが、CTに写るような影はありません。脳も腫れていませんし、主治医チームも手をこまねいているようでした。最悪なことに、そのときすでに彼女の意識は永遠のかなたに行っていたのです。

 彼女は当初、頭痛を訴えて夕方の時間外の内科外来に、特別に神経内科専門医に診てもらうためにかかったのですが、まだ20代前半の元気な女性が目の前でろれつが回らなくなっているという異常事態にもかかわらず、この診察した神経内科医、結局CTは撮影されずに風邪だと判断して薬を処方しただけで、看護師寮に帰宅させてしまいました。

 このときの判断に関して後日、内科の中でも議論があったようですが、やはりCTをとった上、神経学的に精査をすべきだったとの意見が出されたようです。もっとも、CTに異常はなく、結局は寮に帰されたかもしれませんが。

 翌朝9時、これまで無断欠勤など皆無で婦長や主任などの上司からの人望も厚い彼女が病院に出てきません。絶対に何かある!と確信した病棟師長(当時は婦長と呼ばれていました)が総務課職員、寮監と一緒に合鍵で彼女の部屋を開けると、床の上に泡を吹いて白目を向いた彼女がよこたわっっていました。

 その後の詳しい経過はわかりません。発見時に心停止があったのか、救命措置はどのように行われたのか、など、詳しいことは関係者からは聞けませんでした。あまりの出来事に私が訊けなかったのです。脳脊髄液の検査で一切の感染症は証明されず、意識は戻らず、人工呼吸器で従属的に心臓が動かされている状態となりました。これが脳死の状態です。

 2ヵ月後に病理・細胞診検査に提出された脳脊髄液には、ふだん絶対にみることのない神経細胞(ニューロン)が出現していました。つまり、脳が溶けていたのです。これが病理学的な脳死です。

 その時点でCTスキャンを撮影しても、まだ脳は影も形もありませんでした。 当時、脳死というのはイコール、ヒトの死なんだ、とか言って、脳が機能停止したら人間終わり、だから脳死になったら移植だ移植、おれもドナーになってやる!・・・みたいに思っていたのですが、まさか大好き、いや大ファンの彼女がいままさにその脳死の状態にあるのです。でも、私の心は再び彼女が目を開けてくれることを最大限に期待していました。

 医学的に脳死を理解できていても、私の心は目の前の現実を受け入れることができないような状態でした。

 さらに2ヶ月が経過し、夏がやってきました。来る日も来る日も人工呼吸器で肺を動かして酸素を取り込み、心臓が動いている状態です。感染症の兆候がすべて否定されて以降、ステロイドだけは投与されていました。そして、若さだけが、脳死という期間を長引かせ、心臓が鼓動を止めることを引き伸ばしていました。

 来客用もかねる病院食堂に見慣れぬ患者家族と思われる初老の男性がほぼ毎日、食べにきていました。よくみると、どことなく彼女の面影があります。お父様でした。山陰地方、島根県の、とある田舎町から単身、毎日病院に通うために東京に出てきたというのです。彼女自身が、地方の看護学校を卒業し、大学病院で高度な医療を学びたいという想いから、東京に出てきたと聞きました。

 治療になすすべなく、皆がっくりして内科の医局に集まっていたとき、ちょっぴり毒舌な先生はこう言い放ちます。「ほかに死んだほうがいいやついくらでもいるのに、なぜ彼女がこんな目にあうんだ!」

 発症してから約3ヶ月、私は夏休み中でしたが、7月のある日、とうとう彼女の心臓は鼓動を止めました。

 「頭だけを解剖してよいとお父様から許可が下りた」とのことで、私の先輩と、ベテラン男性技師が彼女の頭蓋骨を開けました。当初、よく知っている看護師さんだけに、その技師は「ボクは解剖に入りたくありません」と断ったらしいのですが、先輩は「脳死の現実から目を背けちゃダメだ」と諭し、彼を第二助手として解剖に着かせたというのです。

 結局、頭蓋骨の中には脳組織はほとんどなく、すべて指と指の間からこぼれ落ちるお粥状の内容だけだったそうです。ご遺体は仲間の看護師たちの手によって死に化粧がなされ、棺に納められていったそうです。この解剖の第一助手をつとめた別のベテラン技師は解剖の名手ですが、「あれほど髪の毛が豊富で長いご遺体の頭を開けたことがなく、苦労した」と言っていました。

 かろうじて脳下垂体周辺に固体があり、それを顕微鏡でみましたが、白血球(そのひとつ組織球)による脳組織の貪食(どんしょく、壊死した細胞を食べること)を認めたのみでした。 神経細胞やグリア細胞といった中枢神経を構成する細胞ははまったく見つけることができませんでした。

 解剖の後、その日のうちに彼女のなきがらは羽田空港から出雲空港に向けて飛び立ちましたが、その空港までは1日2本しか便がないということで、棺の到着を待つため30分離陸を遅らせてくれたそうです(と、後に聞かされました)。

 このときのことを当時一緒に働いた別の技師に話すと、「亡くなった人のことを考えるのはやめようよ」と言われるのですが、脳裏にこびりついて絶対に忘れられないのです。いくら年月がたっても、昨日の出来事のように、彼女の脳死そして死 が蘇ってくるのです。

 名前はもちろん、彼女の顔もよく覚えています。この出来事が、私にとっての脳死を考える上での原点です。


 月日は流れ、2013年の5月ゴールデンウィーク、私は彼女の故郷である、島根県の山間部にある某町をオートバイで訪れることになりました。当時カルテに記載された、彼女の本籍地を覚えていたのです。そこはその町の中心地区ですが、ものの数分も歩けば町を横切ることができるほど小さな市街地です。おそらく彼女も歩いたであろう街の目抜き通りをオートバイで走ってみました。駅前に停め、中心市街地を歩いてみました。彼女も目にしたであろう光景をこの目で見ることができましたが、同時に、遠い過去の楽しくも悲しい出来事が思い出されました。